【地域】
 新潟県新潟市
【ジャンル】
 伝説スポット
【参考リンク】
 
新津図書館地図

2003/12/10  にいつの昔話

 岩手県の遠野市へ行ったとき、僕がかなりの衝撃を受けたことは以前にも記したと思います。普通に人々の生活が営まれる中に民話の世界が当たり前のように共存している。これが、非常に不思議だったのですね。
 でもですね、よく考えるとそのような遠野市の民話の伝説スポットは、たとえば道端の地蔵であったり、どこかの神社であったり、池であったりするわけでして、そのようなものはどこの町にもあるものだと思うのですよ。ただ、それに由来があるかないかの話だけで。さらに言うなら、由来なんてものは人間が作ったものであり、それが現在に伝わっているかどうかということなのですよね。
 
 で、民話の宝庫と呼ばれる新潟において、このような所は、他にもあるはずだと思って、僕自身新潟市近辺の伝説の場所とかそういう所を探していたんですよ。そしたらですね、あったのですよ、そういうところが。町を歩くと、あちこちに昔話にまつわるスポットがあるところが。どこだと思いますか?それを知って僕もかなり驚きました。そのスポットの幾つかは、僕の通勤路であり、おそらく何百回もそのすぐ近くを行き来しているところだったりしたのですから。
 その場所とは新潟市の端にある旧新津市です。新潟の方ならかなり驚かれたと思います。たとえば、この市が新潟の石油発祥の地ということなら、新潟の方なら分かるでしょう。あるいはにいがた緑化フェアの一会場となり、その後そこが新潟県立植物園となったことも知っているかもしれませんしかし、新津の昔話については、新潟の人(あるいは新津の人でさえ)何も知らないのではないでしょうか?
 
 新津観光協会も新津市を”花と緑と石油の里”として宣伝しており、”昔話の里”ということには微塵も触れておりません。
 しかし、市内のあちこち(約20カ所)にスポットがあり、そのスポットにはキチンとどのような由来があるかという看板が建てられているのです。さらに”新津市図書館”発行で”にいつの昔話と史跡の道”というガイドブックが発行されており(左写真)、文化財などの史跡を含めた計26カ所のスポットが、スポット周辺の簡単な地図と、その由来文を添えて紹介され、サイクリングモデルコースとして提唱されているのです。
 少なくとも、僕自身、ここまで事細かに書かれた伝説スポットガイドブックは遠野市以外では初めて見ました。読んでいるだけでもかなり面白いです。
 
 残念なことは、ただ一つ。このことは、他のガイドブックには載っていないし、おそらくこのガイドブックの存在を、当の新津市民ですら知らないのではないかということです。(少なくとも僕の周りの新津市民はまるで分かりませんでした)
 
 まぁ、それはともかく、こんな便利なものがあるなら、これを読みつつ、新津市内を散策すればいいわけでして、そうすると僕の大好きな伝説スポットに色々と出会えたりするわけですね。ということで、このガイドブックを手にして、新津の昔話スポットを紹介していきたいと思います。
 おそらく、また長話になりそうなので、何回かに分けて紹介します。
 休日を利用して、今年一番の寒さの中、雨に降られたり、風に震えたりしながら、これから紹介するスポットを訪れ、写真とか何枚も撮ったので、話のネタにしないと虚しくて仕方がないのです。
 
 で、伝説のスポットですが。その前にご注意を。僕の話に興味を持って、自分もこのスポットを訪れたいと思ったら、まず新津図書館に行ってください。おそらく、上で紹介したガイドブックは新津図書館にしか置いてないと思いますので。それも、係の人に言わないともらえないというものでして。
 一応言っておきますが、このガイドブックがなくて地図を頼りにこのスポットに行こうと思ってもかなり厳しいと思います。なぜなら、これらのスポットは地図にすら載っていないのですから!
 
 ・・・おそらく、年に何人も訪れないんだろうなぁ。
 
 
 【けさがけ地蔵】
 
 さて、まず紹介しますのが、北上のけさがけ地蔵。県道5号線、バス停北上3丁目近くの土手下にありまして左写真のような、小さな祠の中にそれは安置されております。
 
 おそらく江戸時代のことだと思われるのですが、飢饉の年に年貢米を収めることが出来なかった二人の農民が、役人にそれを叱られ、刀で斬り殺されるということがあったそうです。
 それを気の毒に思った北上の人達が、二人の霊を弔うために二体の地蔵を作り、この場所に治めたというのが、この地蔵の由来だとか。さらに、この地蔵様、安置してから二三日すると、何もしないのに肩から刀でけさ切りにされたような傷が付いたので「けさがけ地蔵」と呼ばれているそうです。 
 
  
  
  で、これがその地蔵様の写真なのですが、左写真を見てもらうと分かるように地蔵様は二体のはずが三体ありまして。おまけに地蔵様に頭巾と、衣類を着せているので、けさ切りの傷は見られずじまいです。(さすがにお地蔵様の服を脱がす程、不心得者ではないもので)いったい、この昔話はどこまで信ずればいいのでしょうか?
 とは言え、そういう年貢が納められないために殺されるという悲しい話があったのは事実なのでしょうね。何とも、昔の農民の立場の悪さとか、それに対して反抗もできず、ただ地蔵を作って供養をするしかなかった周りの人達のやるせなさなどが感じられます。
 
 
 【婆池】
 
 さて、続いてのスポットは川口の婆池。こちらも県道5号線、川口バス亭脇の諏訪神社(左写真)の片隅にあります。もっとも現在では右写真の様に、その池跡の石碑が残るだけですが。
 ここに以前あったという婆池の名の由来はこのようなものです。
 
 昔、意地悪な婆がお寺参りに行った。その後で嫁が味噌を取りに蔵に入ったところ、味噌桶の上に大蛇がとぐろを巻いていた。ビックリした嫁は、火箸を真っ赤に焼いて蛇の頭に押し当てた。
 すると、お寺にいた婆が、悲鳴をあげて倒れた。周りの人が助けると、額にやけどの跡があった。婆は、嫁に大事な味噌を勝手に使われたくない一心で、その魂が蛇になったのだった。
 婆は、それを恥じ、この池に身を投げ、大蛇となって、池の底に姿を隠したと言う。

 
 この池のすぐ近くに改観寺というお寺があるので、婆が行ったのは、おそらくそのお寺でしょう。面白いのは、生き霊が蛇に姿を変えるということで、しかもそれが味噌のためとは、なんともはや、浅ましき婆の話ですね。
 さらに、大蛇に怯えず、焼け火箸を蛇に押しつける嫁もある意味、蛇より怖い鬼嫁という感じすらします。
 
 これはあくまでも僕の憶測に過ぎませんが、この昔話は人間の欲の深さを戒める法話として、この寺の和尚がした方便のような気がしますね。あくまでも分かりやすく教えを伝えるために、近くにあるものを例にとるというのは、効果的な方法ですので。「あまりに欲が深いと、お前も蛇になって婆池の底に住むぞ」と半ば脅すような感じで話していたのではないでしょうか?
 
 
 それにしても、味噌を心配して魂が大蛇になるのかぁ。
 
 
 
 クリスマスのカップルを憎んで、僕の魂が、ホテルの前で大蛇になってとぐろを巻いていたら嫌だなぁ。
 
 
 ・・・そうならないように、誰か優しさを分けて下さい。(涙)
 

 

2003/12/11  にいつの昔話(2)

 さて、昨日に引き続き、新津の昔話スポットをの紹介しましょう。
 
 【生き地蔵】

 さて婆池に続いて行ったのが、すぐそばにある(歩いて3分くらい)改観寺(左写真)の境内にある「生き地蔵」。
 
 何でも、昔、この辺りで大雨が続いたとき、真夜中に「土手が切れるぞ」と大声で村人を起こし回った者がいて、その者が注意したおかげで、土手が切れる前に村人は、その箇所を補修し、水害を防ぐことが出来たということがあったそうなのです。
 で、その土手を守った翌朝、村人が、この寺のお地蔵様を見てみると、全身泥だらけになっていたということで、夜中に村人を起こして回ったのは、このお地蔵様だったと言うことが分かり、村人は今まで以上に、このお地蔵様を大事にしたということなのです。
 
 
 
  
 で、このお地蔵様を祀っているのが、上写真のお堂なのですが、残念ながら、このお堂は鍵がかけられていたので、そのありがたいお地蔵様の姿を写真にとることは出来ませんでした。一応、ガラスごしにお地蔵様を見ることは可能でしたが、まぁ普通のお地蔵様でした。泥などはもう付いていないようでした。
 ただ、町のガイドブックに掲載されているくらいなのだから、普通に一般の人がガラス越しでなくとも、直接いつも拝観できるようにしてもいいのではないかと思いました。お地蔵様っていうのは、もともとそういうものなのですし。ある意味、観光客に優しくないスポットと言えましょう。
 と言うか、後々詳しく記していきますが、この”にいつの昔話”スポットに共通しているところは”観光客に優しくない”ということなのですね。遠野市が日常の人々が生活する世界に観光地としての民話スポットが共存する土地だとすると、この新津というところは、日常の人々が生活する世界があって、その中に昔から伝わる民話スポットがあるけれども、それも日常の風景でしかないので、観光客は(いるのかどうかは分かりませんが)無理やりそれを観光するという感じなのですね。いわば、この伝説スポットの周囲の人々は、そこを観光地としては見ていないわけなのです。 
 
 それが顕著に分かるのが次のスポットなのですが、ちょっと今日は疲れているので、また明日。

  

2003/12/14 にいつの昔話(3)

 さて、新津が観光客に優しくないと記しましたが、それが顕著に表れているのが、次のスポット・
”弥彦明神の投げ石”と呼ばれるところです。
 
 【弥彦明神の投げ石】

 さて、この”弥彦明神の投げ石”由来としては、平安時代の怪物として知られ越後において暴虐の限りを尽くしたと言われる黒鳥兵衛(くろとりひょうえ)の家来の大蔵(だいぞう)兵衛というものの話として伝わっております。
 
 黒鳥兵衛と同じく大蔵兵衛もまた、新津市七日町を拠点に周囲に乱暴を働いていました。これを見て怒った弥彦の神様(弥彦明神)は、大蔵が昼寝をしている時に、神社にあった大石を大蔵めがけて投げました。(弥彦神社から、新津市までの距離は30qくらい)
 石が飛んでくる音に気がついた大蔵はあわてて逃げましたが間に合わず大石はかかとに当たり大けがを負いました。近くにあった温泉で療養するも、けっきょくその怪我が元で大蔵は死んでしまいました。そして後に、弥彦明神が投げた、この石は「弥彦明神の投げ石」あるいは「大蔵のつぶて石」と呼ばれるようになりました。
 また、この騒ぎがあった後、周囲の人たちが、この石を町へ運んだところ、伝染病が町に広がったので「これは大蔵のたたりだ」と恐れ、また元の所に戻したということがあったそうです
 
 
という話となっております。
 越後の怪物、黒鳥兵衛が出てくるところといい、その敵である弥彦明神(=朝廷)が彼の家来を倒すことといい、血なまぐさい謀略の臭いがプンプンするような、かなり魅力的な伝説ですね。さらに、祟りもあったとなると、これは予想以上に大蔵は激しい死に方をしたのではないかと思います。
 おそらく昼寝をしていたというよりは、大蔵が寝ているところに朝廷の人に夜襲をかけられ、足に致命傷を負ったというのが真相なのではないかと思います。
 
 まぁ、伝説の真相に関してはさておき、この「投げ石」がある七日町というのは、僕の通勤路であり、近くを毎日のように、それこそ5年以上も通っているのですね。ところが、にもかかわらず、僕はこのスポットを知らなかったのです。おかしいと思いませんか?これだけの伝説が残っているスポットに案内看板すらないなんて、文化財でもなんでもないとは言え、ガイドブックにまで載せているというのに、これは少し寂しいです。
 と言うかガイドブックを見ると七日町ではなく川口というかなり離れた部落近くになっているのですよ。。おかしいなと思って地図を頼りに行ってみると・・・・何もないのです。(あとで聞いたら、住所は一応七日町だそうですが地元の人は鮭川と呼んでいるところらしいです。)
 
 ガイドブックにあった神社を目印に行くと、確かに神社はあるのですが辺り一面、田んぼと畑というところなのですね。
 
 
 上記写真のようなところでして、ホントに何もない田んぼだけのところ、この時期でしたから稲は刈り取られて寂しい感じがしましたが、春くらいにはのどかな田園風景が広がっているのでしょう。
 そんなことはさておき、「投げ石」なのですが、この田んぼしかないところのどこにあるというのでしょうか?道も農道というよりはあぜ道で舗装もされていない砂利道ばかりです。もちろん案内標識なんてどこにもありません。
 とにもかくにも、「ここら辺」と見当をつけて、田んぼの中のあぜ道を探し回っていると、看板のようなものがようやく見つかりまして、どうやらこれが投げ石らしいのです
 
 
 
 で、これがその写真のわけですが・・・
 左写真の様に松の木の根本に石がありまして、まぁ大きさは携帯と比べても分かるように庭石くらいのものでして。
 祟りがあったというのに祠とか社もなく、ほんと田んぼの真ん中に石がありましたというだけのところなのですね。これで、石が3m以上もあるような巨石とかなら、まだ分かるのですけど、ほんとただの石でして。伝説が伝説だけに、かなりの期待はずれなのですね。まぁ、こんな石にも伝説を残した昔の人の素朴さとかは伝わりますけれども、仮に観光客が、ここを僕の様に必死の思いで探してきてたどり着いたら脱力ものですね。もう少し、何か演出してもらわないと、という感じでしょう。僕も、かなり力がぬけました。まったく、観光客のことを考えていないスポットです。
 
 
 というか、絶対に観光客など来るわけがないと思っているのでしょうけれど。
 
 
 まぁ、僕みたいな物好きもいますので、もう少しなんとかして欲しいかなと。そうでなければガイドブックに載せなくてもいいのではないかと思います。
 
 それにしても、ほんとこの程度の石に伝説があるなんてことを考えると、もしかしてこの石の下には何かやばいものでも埋まっているんじゃないかとさえ思いますねぇ。

 


2003/12/15 にいつの昔話(4)

 さて、少しペースを早めましょう。新津の昔話スポットめぐり。
 
【バレロンの化け物】

 県道5号線から、福島というところの住宅街へ少し入ったところにある八幡宮。 どこの街にでもあるような神社ですが、ちょっとした伝説があります。
 なんでも昔は、この八幡宮の周りは鬱蒼と木が生い茂った気味悪いところだったそうです。そんな中、ある日、お参りに来た村人に「バレロン、バレロン」とおぶさり、頭をかじる怪物があらわれたとか。威勢のいい村人が、そいつを退治したところ、大きな蜘蛛だったという話が残されております。
 おそらく、子供達に「夜遅くまで遊んでいると、バレロンが出るよ」とか言って、親が脅していたという話からでしょう。ちなみに、「バレル」というのが「おぶさる」の新潟弁だったりします。名前の付け方もかなり、いい加減ですね。
  写真で見ても分かるように、今は木は神社の周りに少しあるだけとなっておりまして、怖さもまったくと言っていいほどなくなっております。
 
 
【引っ越しを嫌った神様】
 田島という地区にある住宅街の中の小さな神社。
 なんでも、近くの三枚潟という地区には昔から氏神様がいなかったので、この神社の諏訪明神を移そうとしたところ、この神社の宮司と三枚潟の地区の人々の夢に神様が現れて「私は三枚潟へは行きたくない」と言ったので、この諏訪明神を移すのを取りやめにしたとか。
 なんともまぁ、人間くさい神様の話ですね。しかし、遠くならまだしも、すぐ近くの地区に引っ越しするのでも嫌がるなんて、なんともわがままな神様ですねぇ。単身赴任しているお父さん達が聞いたら「神様はいいよなぁ」とうらやましがりそうな話ではあります。
 もっとも、こんな伝説を知らなければ、ごく普通の、どこにでもあるような神社だったりします。それを考えると、このような伝説があったのに、それが残らなかった神社というのは全国にいくつもあるのでしょうねぇ。
 
【火消し地蔵】
 
 さて、県道5号線を新津から新潟市方面にあると道路沿いにあるのが中野の火消し地蔵です。
 
 昔、中野地区の人々が、川を流れてきたお地蔵様を見つけたので、舟を出してお地蔵様を引き上げました。
 その夜更け、舟を出した人の家が火事になりました、村の人々が騒いでいると、突然大男が現れ「昼間助けてもらったお礼だ」と言って、手に持った桶の水をかけました。火はたちまちの内に消え、燃えていた家も基の姿にもどっていました。
 よく朝お地蔵様を見たら、体中すすだらけになっていたので、村人達は、お地蔵様が恩返しをしたのだといい、お地蔵様を大切にするようにしました。

 
 このような由来が残っている地蔵様ですが、普通のお地蔵様と同じように小さい社に安置されております。それは、ホントにどこにでもあるようなお地蔵さんです。ただ少し、千羽鶴やらお供えがあって賑やかですね。このような話があるので御利益があるとされているのと、比較的古そうな民家が近くにあるので信心深い人がいるのでしょう
 
 
 
   
 
 一応左の写真のように柵の中に安置されております。顔のアップをとりましたら、確かに黒いのですけど、これは火事の煤ではなくて、近くに道路があることから、排気ガスではないかなと思います。
 それにしても、火消し地蔵と言っても、やはり火事を消すだけなのですね。どうせなら、カップルの燃えさかる愛の炎も消してくれればいいのに。(<そんな地蔵は全然ありがたくありません)
 
 それにしても、川で流される地蔵って、そんなに軽い地蔵なのでしょうか? 
 
 【鷺の湯】
  
 
 県道5号線を市ノ瀬バス停にて降りると田園風景と小さな農村があるのですが、そのような田んぼの中で、少し気を付けてみていると左写真のような鳥居があることに気が付きます。鳥居には「鷺の湯」と書かれておりまして、その先を進むと神社の代わりに、右写真のようなホッタテ小屋があります
 この中に、霊泉”鷺の湯”があります。明治の初め頃に傷ついた一羽の鷺がこの地に降り、湿地帯の中で自噴している湯で体を癒すと、見る見る良くなり、全快して飛び立っていったことに周囲の住民が気付き、「鳥に効くのなら、人間に効くのだろう」と言って井戸を掘り、万病の薬として利用したのが、この「鷺の湯」の始まりとか。
 もっとも、湯ではなくて水なのですけど。一応、効能としては目の病や傷、できものなどによろしいとか
 
 
 ホッタテ小屋の中には確かに井戸がありまして、これが「鷺の湯」らしいです。
 それにしても、由来が明治時代って随分新しい話ですね。そんな中で、鳥が温泉に入ったというのが、何とも微笑ましい話ではあります。

 


2003/12/16 にいつの昔話(6)

 【生き石】
 
 
 さて、新津から新潟市まで川沿いの道、県道5号線の昔話スポットを巡ってきたわけですが、県道5号線沿いのスポットではここが最後になります。覚路津(かくろづ)というところにある”生き石”は、地域の神社にしてはすこし大きめの神明宮(左写真)の境内の中に、小さな祠(右写真)がありまして、その中に納められています。この祠は「生き石神社」と呼ばれています。
 
 その由来。 
 
 昔、この神明宮にあった石を近所の子供たちが近くの池に放り込みました。その夜は大嵐となりました、次の日、子供達がお宮に行くと、昨日池に放り込んだはずの石が元のところにもどっていました。不思議に思った子供達が、またその石を池に放り込むと、またその夜も大嵐。よく朝、やはり石は元の所に戻っていました。
 この話を聞いた村人は、「これは神様のお使いの石に違いない」と言い早速、祠を作り、その中に石を納めました。すると、石はだんだん大きくなり、祠の中いっぱいに成長しました。その後この石は「生き石様」と呼ばれ、大層大事にされたということです。

 
     
 
 で、これが生き石の納められている祠(写真左)とそのアップ(写真右)です。祠の中にあるせいか、普通の石よりも表情があるように見えますね。確かに祠一杯に石が入っていました。どうやって入れたんだろうと言う感じですね。それにしても、この昔話、元のところに戻るという話と成長石の話が一つになっているという、なっているという珍しいタイプの話ですね。どちらかというのは、聞いたことがあるのですけれども。

 この「生き石神社」他の昔話スポットと違って、きちんとした祠の中に納められており、その祠に鍵がかけられているということもなく、生き石にいつでも直に見たり触ったりすることが出来るということで、伝説スポット好きには非常に楽しいところとなっております。場所も土手沿いにあるのですぐに分かるということで、今回のスポット巡りでは珍しく、土地の者でない観光客でも非常に楽しめるところでして、オススメのところではあります。
  
 
 
 三十路男性が石を触って喜んでいるのは、どう考えても不気味だということはさておき。

 

2003/12/17 にいつの昔話(7)

 【餓鬼地蔵】
 
  
 さて、続いて紹介するのは、磐越自動車道新津ICを降りてすぐのところにある新津市勤労青少年ホームの隣のお地蔵様の話。新津の昔話の中では珍しく、ちょっと怖い話です。
  
 
 その昔、このお地蔵の近くで、一人の旅人がさまよい、食べるものがなくなり、力つきて死んでしまうということがあった。それ以後、この旅人の魂が、この辺りをさまよい、時々通りすがりの人にとりつくようになった。これにとりつかれた人は、急に腹が減って力がなくなり動けなくなってしまった。これを人々は”餓鬼にとりつかれた”と言った。餓鬼にとりつかれた人には、まず味噌汁を飲ませ、しばらくしてから雑炊を与えるといいと言う。
 このようなことが続いたので、このお地蔵様は”餓鬼地蔵”と呼ばれるようになった。人々は、餓鬼の魂を慰めるために供養塔を建てた。その後は、餓鬼にとりつかれることは無くなったという。

 
  
 そんなわけで餓鬼地蔵(写真左)と供養塔(写真右)
 話としては”ひだる神”とも言われる典型的な”餓鬼”の話ですね。たしか急激な血糖値低下で動けなくなると言います。面白いのは、その目印として地蔵様が使われること、さらにその対処法として”味噌汁”という持ち歩きが困難なものが選ばれているところ。普通は旅の途中の山道などでなることが多いので、おにぎりを一口食べるとか、飴を舐めるといいとか携帯できる食事での言い伝えが多いのですけれどね。近くに民家が多かったのでしょうか?
 それならば、そんなに餓鬼にとりつかれる人も多くない気もするのですけれども、やはりホントに何かあった土地なのでしょうか。おそらく、行商の人とかが多く、人通りの多いところだったのではないかと想像するところなのですが。
  
 

 
 ちなみに現在はこのような住宅街の一角にあります。自分の家の隣に、このような気味悪い話が残っている地蔵様や、供養塔があるってどんな気分なんでしょうか?
 
  
 それはともかく、餓死した昔の人の霊を慰めるために供養塔を建てるならば、クリスマスを目前にして愛に飢えて倒れそうな三十路の男性を慰めるために、誰か何かしてくれてもいいと思うのですが


2003/12/23〜24  にいつの昔話(8)
【七体地蔵尊】
  
 新津の街の少し外れ、東金沢というところ。写真左のような田んぼの真ん中に写真右の様な小さなお堂があります。その中には七体のお地蔵様が安置されております。(下写真参照)
 
 
 
 なんでも、ここら辺は昔は深いやぶがあり、狐がたくさん住んでいたということなのですが、この狐が人を化かすということがあったらしい。
 
 ある日、源兵衛というものが隣の村へ行き、夜になって自分の家に帰ろうと、暗い夜道を歩いてきたところ、いくら進んでも自分の家につかない。すっかり疲れて、道に座り込み、気が付いたら夜が明けていて、そこは源兵衛の家の裏の田んぼだった。
 この話を聞いた東金沢の庄屋さんが、二度とそんなことが起きないようにと、その場所に七体のお地蔵様を安置し、それからは狐に化かされることもなくなったということです。
 
 
 狐に化かされるという昔話定番の話ですが、お地蔵様の力で狐が化かさなくなるというのが安易と言えば安易ですね。
 もっとも、よく見るとこの地蔵堂の周りには庚申様などがあったりするので、もともと何かしら霊的な地だったのでしょう。その由来は分かりませんが、何かしらあったような気はします。
 そう言えば地蔵様って六地蔵だけで無いんですね。七体の地蔵様ってよく考えると初めて見たような気がします。
 
 それにしても狐って昔話にはよく出て来るんですけど、僕は見たことが無いんですよね。同じ化かすものでもタヌキはよく見るのですけど。通勤路で車で轢かれている動物がいて、犬かと思ったらタヌキというパターンがほとんどですし。
 
 
【雨乞い地蔵】
 はい、見ての通りの地蔵です。なんでも、このお地蔵様、近くの能代川を流れてきたのを、飯柳の人が拾い、お堂を作って安置したとか。
 で、このお地蔵様は、雨乞いに御利益があり、堀の中につけておくと必ず7日以内に雨がふったということです。
 ただし、このお地蔵様の御利益は飯柳地区限定というローカルでして、隣地区の人が、このお地蔵様を夜中に持ち出し、自分のところの堀につけて置いても、結局雨が降ったのは飯柳だったということです。
 
 現在は、普通にお堂の中に安置されておりますので、その霊験の方はどうか知りませんけど、かなり大事にされていますので、部落との結びつきが深いことは確かでしょう。 
 
 それにしても、中野の火消し地蔵に続き、このお地蔵様も川を流れてきたというあたりが面白いですね。Googleで調べると、少しはヒットするので、由来談としてそこそこあるのかもしれません。桃太郎の桃が川を流れてきたということから考えて、川の流れには何かしら霊的なものがあるとされているのでしょう。
 
 しかし、クリスマスイブの朝から、地蔵の話を持ってくるというのが、さすがだな、オレ。
 
 

【河童の約束】

 新津の小口というところに忠右衛門という人が能代川(写真左)という所で身体を洗った馬を小屋に入れたら、尾に河童がぶらさがっていた。
 河童はいつも川でいたずらばかりしていたので、こらしめようとしたら、必死に誤るので忠右衛門は、それを許した。河童はそのお礼に毎朝魚をとらえてきて、家のかぎつけにつるすようになった。
 その内、あまりに多くの魚を河童がとらえてくるので、かぎつけが壊れそうになり、丈夫な鉄のかぎつけを下げたところ、河童はこなくなった。河童は鉄を嫌ったからである。
 しかし、その後、川で河童にいたずらをされるものがいなくなり、水死するものもいなくなった。
 そのため、小口の間神社は水難よけの神様として祀られている。


 
 河童の話の中では、比較的ポピュラーな部類。馬の尾にぶら下がる河童の話、お礼に魚を運ぶ河童、鉄が嫌いな河童など、いずれも聞いたことがある話です。
 ただ面白いのは話の中では、この河童の御利益としている神社の名前が唐突に出てくるということ。忠右衛門と何か関係があったのでしょうか?
 
 
 ということで”間神社”(写真左)このように非常に小さい神社です。一応、中を撮ってみたら本尊は写真右のような石塔らしいです。能代川は、たしかにこの神社の前を流れているので、何か関係がありそうな気はしますが、忠右衛門とどうつながるのかが知りたいところです。
 
 
【煮坪】
  
越後の七不思議というと一般には親鸞七不思議をさすのですが、「北越奇談」ですと、石油が「燃える水」と七不思議に挙げられています。この「燃える水」の発祥の地が新津市であり、その新津油田発祥の地が、この煮坪とされています。
 草水(くそうづ)と言う地区にあり、新津市の文化財なので一応道路には看板が出ています。ただし道はかなり狭く悪路となってなっていますので、ご用心を。
 さて、この煮坪、発見は1608年頃というから今から400年近くも昔に発見されたものなのですね。直径4mくらいの囲いの中で石油と水がわき出ています。全盛期には1mもの水と油をふきあげ、沸々とわき上がる音がものを似ている音と似ていることから煮坪と呼ばれたとか。その響きは、1q先でも聞こえたと言うから、かなりの勢いだったのでしょう。
 
 
 ということで煮坪(左)とその中身(右)
 残念ながら明治以後、石油の発掘が盛んになるにつれて、自噴する勢いはなくなったとか。
 現在では、左の写真のような中に、石油くさい液体(右写真)があり、時々小さな泡がポコ・・・ポコと吹き出すくらいになっております。あたり一面には石油臭い臭いがたちこめ、まさに古い油田の面影を残しています。
 
 ちなみに右写真を撮ったときに、撮影しにくかったので、周りの柵の上に立って撮影したのですが、体制を崩してこの中に落ちそうになったことは内緒です。

2003/12/27 にいつの昔話(9)

 【七色の池】
  さて、新津の昔話も、かなり語ってまいりましたが、今回の昔話は民話と言うよりは神話の世界。秋葉山のふもとにある池に伝わる話です。
 
 その昔、父神、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と旅の途中離ればなれになってしまった市杵島姫(いちきしまひめ)は秋葉山のふもとに流れ着きました。
 父恋しさに嘆き悲しんでいる姫のところに、七人の仲良しの子供達が現れて、なぐさめ楽しく暮らすようになりました。しかし、その楽しい日々も終わりがきます。ある日、大津波があり、子供達はみな波にさらわれてしまったのです。波のひいたあとは、何事もなかったように静かになり、ただそこに小さな池がぽつんと出来ていました。
 仲良しだった子供達を思い出し、姫はその小さな池に小石を拾っては投げ込みました。一つ投げると一色の輪、二つ投げると二色の輪、そして七つ投げると七色の輪ができました。
 その後、その池のことを七色の池とか七つの池とか呼ぶようになりました。
 

 
 ということで素戔嗚尊(すさのおのみこと)なんて漢字を初めてみたわけですが、この素戔嗚尊の刀から生まれたと言われているのが市杵島姫らしいのですね。僕は知らなかったけど、一般常識的に有名らしいです。いや、日本神話なんて、高校の頃に少し読んだくらいですからねぇ。まぁ、それはともかく。
 しかし、こんな伝説が残っているにもかかわらず、すぐ近くにある秋葉神社の祭神は市杵島姫ではないらしいのですね。そのあたりがなんとも、地域と伝説のちぐはくさを感じさせてくれます。
 
 
   
 
 で、これがその七色の池です。見てのとおり、池と言うよりは大きい水たまりという感じです。七色というにはちょっと厳しいかなり濁った色の池です。こんな小さな池に、上で紹介したような日本神話を下敷きにした伝説があることすらが不思議です。福島の五色沼のように色がついた池だったのでしょうか?もしかすると油田が近くにあるので、油が川に流れ込み、油膜が虹のように輝いていたということかもしれませんね。
  今は、そのような趣もなく、ホントにただのたまりという感じで、僕も何回も近くを通っていたのですが、このような伝説のことは全く知りませんでした。
 
 
 ただ、このような看板があったので、案外と津波に流された子供達の話は本当なのかもしれないですね。その悲しい話を後世に残そうと、このような伝説にしたのではという気がします。
 
 もっとも、この話の他に、「失恋した娘が、身を投げた池」だという話もありまして、そちらの方が僕にふさわしい話かもしれませんが。

 


2003/12/28 にいつの昔話(10)

【お井戸の中のお地蔵様】
 
 新津市役所のすぐ近く、西島というところにあるお地蔵様の話。
 
 この西島には「お井戸」と呼ばれる池があり、池の中には竜の印のあるお地蔵様が祀られています。このお地蔵様は昔から村人に「お井戸の中のお地蔵様」と呼ばれ大事にされておりました。
 ある時、ひどく日照りの年があり、田畑の作物も枯れてしまいそうな年がありました。困った村人は、お井戸の地蔵様の所へ行き、雨乞いのお祈りをささげました。すると三日後に雨が降り、田畑はよみがえりました。それから後、この地蔵様を「雨降り地蔵様」と呼んで一層大切にするようになりました。

 
 という、話が残る。この「お井戸」なのですが、これがとにかく分かりづらい場所にあります。目印の看板などは一切無し。「妙連寺」という新津市の文化財になっているお寺の近くにあるとなっているのですが、寺の周りは民家だけ。しかも道幅は車1台がやっと通れるくらい。で、さらに袋小路になっているところも多くありという感じで、ホントに分かりにくいのです。(実際に何回かバックできた道を戻りました)
 で、民家の辺りを不審車のごとく、ウロウロしてやっと見つけました。
 
 
 ホント、民家の一角に小さなため池という感じで、それはありました。一応説明看板はついていますが、それがなければ貯水池にしか見えません。
 
 で、この中にお地蔵様があるのかと思ってのぞき込むと
 
 
 
 
 この通りの色で何も見えません
 
 僕が行った日が雨の降っている時だったので水量が多かったのでしょうか。渇水期だと見えるのかな。まぁ、水が澄んでいればいいだけの話なのですけどね。池の手入れなどはしていないようで、相変わらず、地域の人達は「わざわざ見に来る人などいない」と思っているようでして。この辺りが、昔話の里になれるかどうかの違いなんだろうなぁ。
 
 
【空を飛んできた観音様】
 さて続いて紹介するのは、普談寺(朝日観音)です。ここは、今までの所とは違って、かなり有名なようできちんと案内看板もありますし、バス停まであったりしますので、すぐに分かるかと思います。
 
 その由来。
 昔、大阪の武士が海で観音様を拾ったところ、その武士の夢枕に観音様が現れ、「私は病に苦しむ越後の人を救わなければいけない。そこで、明日の夜明けに私を越後の方へ投げあげてくれないか」と武士に頼みました。 次の朝、武士は観音様を空に投げあげました。
 その頃、越後では病気がはやっていましたが、ある日越後の村人が草むらの中で輝く観音様を見つけ、その場所にお堂を建て、観音様をおまつりしたところ、流行っていた病気も治まったそうです。

 
 で、上の写真が、その観音堂となるわけです。あいかわらずですが、このお堂は鍵がかかっておりまして、中をのぞき見ることしか出来ませんでした。そんな霊験あらたかな観音様なら直に見たいと思うのですけどね。人の気配も無く、もし道路標識を見て、ふと訪ねた観光客とかいたら、大変がっかりすることでしょう。
 お堂自体は、普通のお堂でした。
 
 まぁ、唯一の救いと言えば、山門の仁王像の表情が、ユニークだったことでしょうか。
  
 
 阿吽とみにギョロ目の仁王像。モデルは西川きよし師匠か?(絶対に違う)
 
 
【大鹿諏訪神社中世石仏】
 さて、続いては、新津市内より小須戸方面に向かっていくと道路沿いにある諏訪神社の境内にある石仏
 地元では、「お地蔵様」と言われているようですが、実際には阿弥陀如来像ということです。中世に作られたと思われ、新津市の文化財にもなっています。特に由来などはないですが、年輩者の話ですと、力比べのために持ち上げて運んだこともあったということです。
 そう言えば、遠野市のさすらい地蔵も、力比べのために使われていましたね。案外と地蔵様というのは、そのようにされることが多いのかもしれません。それほど親しみがもて、地域の人々の生活の中にとけ込んでいるということでしょう。
 この石仏は小さな祠に収められておるのですが、文化財に指定されている割には、特にキチンと管理されていることもなく、それこそ持ち帰ろうと思えば、持ち帰れそうでした。
 のぞき見したりしてしか見ることが出来ない地蔵様などもありましたが、親しみがもてることを考えると、こちらの方が自然のような気がします。
 
 
【こうせん宵宮】
 さて、長らくかかった新津市の昔話スポット紹介もようやく終わりです。新津市と小須戸町の間にある神明宮(左写真)の話。
  
 この神明宮は昔から「宵宮」と呼ばれ、毎年八月十日にお祭りをしていました。
 ある年、洪水のため、稲が全滅してしまい、お宮様へのお供えはくず米の粉でつくった「こうせん」しかあげられませんでした。その後も不作が続き、「こうせん」しかお供えできず、いつしかお祭りにはこうせんをお供えするのが習わしとなりました。
 それから後、ある大飢饉の年、村人たちは相談しお祭りを休むことにしました。すると夜中に大嵐があり、お宮の大杉に雷が落ちました。
 村人たちは、それを神の怒りと考え、それからは盛大にお祭りをするようになりました。

 
 ということで、写真の通り、普通の神社にまつわる昔話です。僕は、この神社の八月十日に行われるという祭を見たことがないのですが、どんなものか一度見てみたいですね。村祭りにしては盛大に行われるのでしょう
 それにしても、お供え物は「こうせん」でも許せるけど、お祭りをしないのは許せないというあたりに神様の我慢の限界を見ることが出来て楽しいですね。
 
 ということで長いこと紹介してきた新津の昔話スポット紹介もこれで終わりです。かなり退屈なものとなってしまいましたが、ご勘弁のほどを。こうして、地域に伝わる話をWEBの世界に残しておくということは、決して無意味ではないと思うもので。
 このような民話、伝説などは各地に残っていると思うので教えていただけたら幸いです。 
 
 
 ところで、これだけ地蔵様や神社などをまわり、その度に祈っているのですが、いまだに運命の女性との、と言うかそもそも女性との出会いがないのはどういうことなのでしょうか?

 
 
 ・・・そもそも、神社や地蔵様を見にいくような女性はいないのではというツッコミはさておき。

 



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